ひとりごと7)ウクライナ

麻酔科部長(副院長)のひとりごと

2022年6月9日更新
 

2月にロシアがウクライナに侵攻して、早々に終わるという当初の予想に反してウクライナの健闘ぶりがマスコミをにぎわせています。現地で起こっている本当のことを日本で伝えられているのかどうかを知るよしもありませんので、それを論評するのもいかがなものかと思います。今は戦争が終わることをただただ祈るばかりです。



ウクライナの地名は意外と聞いたことがあるのでは

日本人にとってウクライナは遠い国です。むかしむかし、私たちの世代(昭和30年代前半の生まれ)は中学と高校では日本のみならず世界の地理も歴史もかなりきっちりと習いましたが、その当時ウクライナはソビエト連邦の一地域でしたので、教科書にウクライナという地名がソビエト連邦とは別に出てきた記憶があまりありません。勉強不足だったかもしれませんが、ウクライナといえば“ヨーロッパの穀倉”という別名があるくらい肥えた大地を持つ国というより地域というところが今私の頭に残る記憶です。むしろ、ウクライナという国名よりウクライナにある特定の都市や地名で私たち日本人になじみのあるものがあります。

読者の中にはウクライナはピンとこないけどその地名なら知っている、とか、その地名はウクライナだったんだ、というものがあるのではないでしょうか。実は私が知っているのは首都のキエフと以下の3つです。


1、チェルノブイリ

まず、一番にあげるならそれはチェルノブイリだと思います。原子力発電所の大事故は当時大きな衝撃でしたが、ソビエトという管理が甘い国で起きたことで日本ではまず大丈夫などと正直なところ、たかをくくっていたように思います。でも、日本でも東日本大震災で同じことが起きてしまいました。事故の原因は違いますが、その地域が今でも放射能という見えない脅威にさらされていることに変わりはありません。


2、クリミア

次にあげるとすればクリミアだと私は思います。地図を見ればわかりますが、ウクライナの南には黒海があり、それに突き出すように出ているのがクリミア半島です。そこで起こった”クリミア戦争”を聞いたことありませんか。19世紀、すでに大国となったロシアは冬の間凍らない港(不凍港と言います)を求めて、南をめざします(これを南下政策と言いますが、私は中学の歴史で習いました)が、そのロシアと当時からヨーロッパの大国であったイギリスとフランスと間で1853年に勃発したのがクリミア戦争です。なぜこの戦争に至ったか、とか、その結果が後世にどのような影響を与えたか、という歴史的な意義よりもこの戦争が有名なのは一人の偉人を後世に知らしめたことによります。”クリミアの天使”と今でも呼ばれる女性、私は子供のころ母親にクリミアの野戦病院にて戦争で傷ついた兵士の看護に敵味方の区別をせず尽力したという逸話をよく聞かされました。当然、看護師さんなら誰でも知っているだろう、と思って、当院手術室の若手看護師さんに聞いてみました。


林「クリミアの天使って知ってるよね?」
Ns「何か聞いたことがありますね」
と言いながら、現代っ子らしくタブレットを動かすこと 
  十数秒。 「ナイチンゲールか、へえ」という返事。
林「今は看護学校で習わなかったの?」
Ns「そんな気もしますね」

あらあら、私の時代錯誤ですかねえ。偉人にはなにかと逸話がつきものです。豊臣秀吉が信長の草履を懐で温めていたこと、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したこと、アメリカの初代大統領のワシントンが桜の木を折ったことを正直に話したことなど、たくさんあります。もっとも、これらの逸話の真偽は言わずもがなです。


3、○○○会談といえば?

最後の地名は高校の世界史のみならず、なんと日本史の教科書(山川出版の詳説日本史)に出てくるのです。日本史の教科書に出てくるウクライナの地名はここだけです(だと私は思います)。それがヤルタです。クリミア半島の先端にあるのですが、帝政ロシアの時代から保養地として栄えた温暖な気候の町です。

1945年2月にこの地にアメリカ、ソ連、イギリスの首脳(ルーズベルト、スターリン、チャーチル)が会し、趨勢(すうせい)が決まった第2次世界大戦の戦後処理についての話し合いがもたれた、いわゆるヤルタ会談です。その中でルーズベルトとスターリンが日本について、サシで密談をしたことは有名です。対日戦を早期に終わらせたいルーズベルトはスターリンに日本への参戦を要請しましたが、スターリンはその対価として当時はまだ日本領だった南樺太と千島列島を要求、これをルーズベルトが認めたというものです。1945年8月15日で戦争は終わったはずですが、当時のソ連が千島列島の北方四島を占領したのは日本が降伏したあとでした。相撲で言えば悪質なダメ押しだったわけですから、これを日本政府は不法占拠としていますし、外務省のホームページにもそのように記されています。

また、当時日本とソ連は日ソ中立条約を結んでいたため、一方的な条約破りという主張もあります。したがって、日本はソ連、ソ連崩壊後はロシアを相手に北方領土の返還を求めていることは当然のことです。一方、ロシアにしてみればヤルタ会議でアメリカ大統領も認めた決定事項であり、敗戦国の意向など片腹痛し、というところでしょう。



ウクライナの歴史について

私たち日本人にとっては遠い国ですが、全く縁がないわけではないように思えます。これ以上のウクライナの知識は私にはありませんでしたが、中高の同級生で日本の最高学府の医学部にすんなり進学した歴史好きな友人が、ウクライナについて1冊の本を紹介してくれました。

黒川祐次(著)「物語 ウクライナの歴史:ヨーロッパ最後の大国」中央公論新社(刊)です。

世界史や地理の基礎知識が乏しいがゆえに遅々として進まずでしたが、何とか読み終えました。この本ですが、初版が2002年8月で、2022年4月に14版とありますので長く読まれてきた本だといえます。以下はこの本から得た知識をまとめたものです。
ウクライナはその肥沃な土地を持ち、秀でた農業の生産性があるゆえに常に周囲の大国の干渉を受けてきました。その歴史は周囲の大国によるウクライナ分割統治の歴史とも言えます。ウクライナという土地は大昔から存在しましたが、国家としてはその名を歴史に刻むことはなく、そのため国家としての独立はまさに悲願という言葉があてはまります。周囲を海に囲まれている地形がゆえに大国の支配を免れてきた日本とはまさに好対照といえます。

ウクライナとして独立したのは第1次世界大戦の直後で、ヨーロッパの各国が民族自決の旗のもとに独立を果たした時期でしたが、周囲のヨーロッパの国々の思惑と国内の内戦のため長くは続きませんでした。結局、その国土のほとんどがソビエト連邦の共和国に組み入れられ、西の一部の地域がポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによる分割統治となりました。その西の地域が戻り、本来のウクライナとして形作るのは第2次世界大戦の後です。その間、ソ連はスターリンの時代になってから農業の国営化を強引に進め、その結果、ソ連統治下のウクライナは大飢饉の悲劇に見舞われました。農業の国営化はソ連政府が食糧を確保するために毎年一定量の農作物を調達するのが目的で、日本で言えば江戸時代の年貢と考えていただければわかりやすいかもしれません。ウクライナの飢饉はある時の不作がきっかけで、不作であっても政府の調達量(年貢)は変わらなかったため、ロシア都市部には食料があるのに穀倉地帯と言われるウクライナは飢饉に見舞われてしまったのです。これは人災以外のなにものでもないですが、その事実は長く隠ぺいされたとのことです。もちろん、農村部のソ連政府への抵抗はありましたが、スターリンはこれらをことごとく弾圧してきました。はからずも、その歴史が今のウクライナの人々のロシアへの抵抗の源泉かもしれません。

第2次世界大戦後、ウクライナは本来の形を取り戻し、ソビエト連邦の一共和国となりましたが、1991年のソビエト連邦崩壊に伴い、念願の独立を果たします。その独立への長い道のりがあるがゆえの、人びとの母国への思いは私たち日本人の理解を超えたものがあるでしょう。



戦後の復興のカギをにぎるのは日本か

今起こっているロシアによる侵攻がいつ終わるのか、全く先が見えません。国連でウクライナの外相が”今何が必要か?“と聞かれて”1に武器、2に武器、3に武器“と答えていました。日本は武器を提供することはできませんので今はウクライナにとってはあまり頼るべき国ではないかもしれませんが、この戦争が終わった時、日本の出番があると私は思えます。農業国のウクライナと工業国の日本、その国家の形態は異なりますが、かの大戦からの復興を経験した日本が今戦争で荒廃したウクライナの復興に協力が必要と私は思います。今は武器が必要なとき、それはNATOに任せて、戦後、日本が一番復興に貢献してくれた、と言われるような息の長い外交を期待したいと思います。


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